院長コラム
「わたし」の取り扱い説明書 その11
「感覚を引き戻すこと=プラティヤハラ」
話/院長・友永淳子
文/副院長・友永乾史
今年は、ことのほか、さるすべり(百日紅)の紅が濃いように見える。そして、近所のそれぞれの百日紅がまるで見えないタクトを振られたように、処暑をすぎて残暑の一番厳しかったころ、一番の盛りを迎えたように一斉に満開を迎えた。
と、ここまで読んでみて、おそらく、多くの方は、心の中に、紅色の百日紅の花を思い描いていらっしゃると思う。
本当に猿が滑りそうな、すべすべとした幹に、まだらになった模様、ちりめんのように縮んだ花弁。
それぞれの皆さんの心に、それぞれの百日紅が形作られている。実際に目にしていなくても、心は、想えばその形をとる。
一服の情景を思い浮かべることもできる。
例えば、過去に迷子になった、あの夏の日の午後。
歩いても、歩いても先の見えないあの坂道。
通り過ぎる車の排気ガス。
騒がしい蝉の声。
乾いた喉。
それでも、心は、同時に二つのもの、あるいは、二つの情景を思い浮かべることはできない。
百日紅と、迷子になった夏の日の午後を、心の中で重ねることはできない。
百日紅と、毎度の夏の午後を重ねた絵を思い浮かべてみることはできても、それは、全く新しい、あの夏の日の午後とは違う、この秋の始まりに作った、新しいイメージである。
何を言いたいかというと、心は、あるものを見ると、あるいは、ある言葉を聞くと、その形を取るということ。
そして、心は、一時に、一つの形しか思い浮かべることしかできないということ。
さらには、心がその一つを思い浮かべているとき、感覚は働かないということである。
お気づきと思うが、皆さんがここまでこの文章を読まれてきて、心に百日紅を思い浮かべている間は、周囲のものは心に入ってきていないと思う。
ふと、救急車のサイレンや、スマホの画面にお知らせが入ってくるのに気が引っ張られていったかも知れないが、百日紅を想うとき、外へ向かう感覚は働いていない。
この、感覚と心の特性を上手に活かして、心を穏やかに保って、瞑想へとつなげていこうというのが今回お話をする、「制感」、「プラティヤハラ」である。
Ⅱ-54 Svavishaya samprayoge chittasvarupanukara iva indriyanam pratyaharah
感覚は、それぞれの対象物から、自分自身を(「わたし」の)内へ引き入れることで心に従う。これがプラティヤハラである。心がそれら対象物から自分の内へ引き入れられているので、感覚器官(indriyas)は感覚物との接触に溺れるということはもうなくなる。この「引き入れること」をプラティヤハラという。
Ⅱ-55 Tatah parama vashyatenddriyanam
そうして、感覚をコントロールするということが完全となる。プラティヤハラは、感覚を自分のコントロールに置くということである。それらは、それらの対象物に誘惑されるということはもうない。これがヨーガの第五の支則である。
(パタンジャリのヨーガ・スートラ 英訳 Dr. Sita k Namibiar, 日本語訳 友永乾史 The Divine Life Society)
満開の百日紅に目を奪われると、心も百日紅のところまで行って、わたし自身の内には、感覚も心もなくなる。
ふと、心は、散歩に出てきていることを思い出す。
「そうだ、わたしは散歩に出て来たのだ」
心がまず、身体の内に戻り、散歩に出てきたことを思い出す。
次に、一息出ていく。
すると、感覚も心に戻ってくる。
見ることから、歩きだすことに、感覚は使われようと準備をしてくれる。
このプロセスにプラティヤハラがある。
外に出て行っていた感覚が、内に、心のあるところに戻る。
これを意識的に行うと、ヨーガの行法になる。
電車の中、街の中、お茶の時間。
わたしたちの感覚は、勝手気ままにあちこちへ向かい、その対象を捕まえて、時には駄々っ子のようにそこに留まろうとする。
その感覚を引き寄せるには、まず、心がその対象物にあることを認める。
そして、心が、その対象物を離すことをイメージする。
ここで、簡単に心が離れなければ、ゆっくり、息を吐きながら、やさしく手放している様をイメージする。
そうして、次に心を向ける方向へ感覚を使う。
目の前に席を必要としている人が立っているかも知れない。
あなたに声をかけられることを待ち望んでいる人がいるかも知れない。
あるいは、道端によい香りの花が咲いているかも知れない。
わたしたちは今、素晴らしいプラティヤハラのチャンスに囲まれている。
そのチャンスは、そう、スマホにある。
スマホのアプリは、これでもかと感覚、特に視覚を引き寄せようと改良されている。
何かを調べようとスマホを開いたのに、いつの間にかSNSを手繰っていたという経験はないだろうか。
あるいは、何かをしようとしていたのに、気付くとスマホを触っていたということはないだろうか。
世界中の秀でた頭脳が、人類の感覚を奪い取ることに費やされているのだからもったいない限りなのだが、そここそ、プラティヤハラの希代の練習場と言えるだろう。
感覚が奪われそうになる。
あるいは奪われて、心も奪われる。
奪われたら、もとに戻す。
ヨーガは、どこにいても実習ができる。
いや、どこにいても、実習をしていないといけない。
これが、これからの瞑想の段階である。
10月からのプログラム
院長のお話会
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11月13日(土)16:30 -17:30
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1月8日(土)16:30 -17:30
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3月12日(土)16:30 -17:30
オンラインでの開催です。yogatomo.online よりお申込みください。
ヨーガニドラ ワークショップ 須田 育
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10月23日(土)21:00-22:00
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12月11日(土)21:00-22:00
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2月26日(土)20:00-21:00
オンラインでの開催です。yogatomo.online よりお申込みください。
土曜の午後のキールタン 寺崎由美子先生をお迎えして
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10月9日(土)16:30-17:30
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12月11日(土)16:30-17:30
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2月12日(土)16:30-17:30
オンラインでの開催です。yogatomo.online よりお申込みください。
編集後記
「編集後記」がどこかへ行ってしまった。
プラティヤハラと、プラーナヤーマについて、納得のいくように書けたのに、うっかり消してしまったらしい。
あんなにうまく書けたのは夢だったような気もし始めるけれども、夢ではない。
確かに、杉並公会堂のカフェで、気の済むまでこのコンピュータのキーをたたいて、「これでよし」としてから、次の仕事に移ったのを覚えている。
どうやら、保存をせずに、そのままにしておいたのだ。
最近のPCはとても良くできていて、保存せずにうっかりそのまま電源を落としても保存をしておいてくれる。
でも、今回書いた「編集後記」はそのセーフティネットを潜り抜けて行ってしまったらしい。
ああ、わたしの編集後記!
あんなに上手に書けたのに!
完全に失ってしまったと分かると、なぜだか超絶素晴らしく書けたような気もしてくる。
いや、嘆いても仕方がない。
もう一度、思い出して書いてみよう。
と、思っても、どんな風に書き出したのかを思い出しているうちに、失ってしまったことが悔やまれて仕方ない。
この時間があれば、あれもやれたし、これもやれた。
心はどうしようもないことに千々乱れてしまう。
でも、そう、もうどうしようもないのだ。
サーフィンで波を待っていて、良い波が来たのに、身体が動かないことがある。あるいは、乗れたとおもった波に、タイミングが合わず、乗れないことがある。
嘆いても、その波は戻ってこない。
いい波に乗るには、すぐに次の波に心向けること。
これが、私がサーフィンから学んだこと。
よく自分を見ていると、失ったものを追い求めて、心が千々乱れている時と、それを諦められた時、呼吸が違う。
悔しがっているときは、横隔膜が緊張して、気が降りていかない。いわゆる、ぐるぐるしている状態。
諦められると、持ち上がっていた横隔膜がふっと下がって、肩の力が抜けて、ぐるぐるが去り、次にフォーカスすべきことが見えてくる。
そう!ここに、プラーナヤーマと、プラティヤハラがある。
これは、ヨーガを通じて得られたこと。ヨーガをしていないころを思い出すと恥ずかしい。人に当たったりしていた。
横隔膜の緊張があるときは、呼吸が浅くて速い。
視点がうろうろして、あれこれ、記憶の淵を巡っている。
横隔膜の緊張がとれたときは、呼吸が大きく、ゆったりする。
視点は必要な一点に向けられるようになる。
プラーナヤーマを常習していれば、横隔膜への感度が上がる。
横隔膜が固くなってきたと思ったら、まず動いてみる。
息をよく吐いてみる。プラーナヤーマをしてみる。
もう失われてしまったものに心が向いているのを、ゆっくり自分の内にもどす。プラティヤハラをする。
コロナの収束は見えず、混乱は収まらないように見える。
でも、この世は人々の、このような、意識的な、あるいは無意識的なプラーナヤーマとプラティヤハラで回っている。
必要をすべきことにエネルギーを向けて参りましょう。
プラーナヤーマとプラティヤハラをしっかり身につけましょう。
そして、「できた!」と思ったら保存も忘れずに!