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院長コラム

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「わたし」の取り扱い説明書 その13

「ディヤーナ、サマディ ― 瞑想と三昧」

話/院長・友永淳子

文/副院長・友永乾史

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今年の夏の終わり、新聞下段の広告欄に、「プレジデント」という雑誌の宣伝が載っていました。

 

会社の経営に携わる、主に男性に向けられた古くからある雑誌ですね。

 

こちらの号の特集は「最高の瞑想」

 

サブタイトルに「たった1分!ストレスが消え、気力が充実」とあります。

 

見出しには、

「重要ミーティング前の『瞑想法』」

 

「深く眠るための『瞑想法』」

 

「1分瞑想パーフェクトレッスン

 

・月曜の朝瞑想 ・昼の壁あて瞑想 ・帰宅後の足裏瞑想 ・寝る前のボディスキャン瞑想 ・音の瞑想 ・ハミング瞑想 ・キャンドル瞑想 ほか」

 

「さらに心が整います!『スキマ瞑想』完全ガイド

 

・電車の中で『つり革瞑想』 ・歩きながら『歩行禅』 ・食べながら『食禅』・・」と続きます。

 

 

雑誌の広告って、ちょっとどきどきしてしまうものが多いですが、こちらもやっぱり少しどきどきしてしまいます。

 

でも、ある意味、瞑想の本質をうまく表している広告とも思います。

 

つまり、瞑想は、どこでも、いつでも、どのようにでも可能であること、そして、それがわたしたちを活き活きとさせてくれることが実によく分かります。

 

 

瞑想という言葉は、明治以降、英語のMeditation の訳語として広まりました。

 

もちろん、それまでも日本には瞑想はありました。

 

それはご存知の「禅」という言葉として、伝わっていました。

 

他でも何度もお伝えしていますが。「禅」は、インドの、ディヤーナ(Dhyana)という言葉が中国で音写され、禅那となり、禅、座禅、禅定として、広まり、今に伝わります。

 

 

このディヤーナこそ、ヨーガの八支則の第七番目。

 

そして、その次の段階とされるのが、サマディ、三昧、定と言われる状態。ヨーガの八支則の最後、八番目になります。

 

以上二つが今回のテーマです。

 

 

ヨーガ・スートラでも説明されますが、ダーラナ(集中/凝念)、ディヤーナ(瞑想/静慮/禅那)、サマディ(サンパッティ/三昧/定)に、明確に分けられる段階はないとされます。

 

「12秒間意識を一点に集められたらダーラナ。

 

それが12回分(144秒)集まったらディヤーナ。

 

さらに、それが12回(1728秒=28分48秒)になったら、サマディに入ったと言ってよい」

 

そのように先生方は説明をしてくれますが、集中しているさ中、実際に、そこで秒数を計ることは不可能です。

 

仮に、周囲の人に計ってもらっても、周囲の人は瞑想者が、どのような心的状態にあるのかは分かりません。 

 

だから、ダーラナ、ディヤーナ、サマディを合わせてサンマヤ(綜制)と呼び、ひとまとまりの行法としてマスターすることが求められます。

 

 

ヨーガ・スートラではそれぞれ、次のように説明されます。

 

Ⅲ-1 Deshabandhah chittasya dharana

 

心を、ある定めた点に置き続けることがダーラナである。

 

 

Ⅲ-2 Tatra Pratyaikatanata dhyanam

 

対象への、一定の、絶え間ない心の波のあることを、ディヤーナという。

 

Ⅲ-3 Tadevarthamatranirbhasam svarupashunyamiva samadhih

 

(ディヤーナと)同じような心の状態で、瞑想の対象のみが心の中で輝くとき、さらに自分自身のことさえ思いに浮かばない時、その状態をサマディ―あるいは没入と呼ぶ。

 

 

集中の対象については、前回の「ダーラナ 集中」で説明したとおりです。

 

ヨーガ・スートラには、さまざまなものが好ましい対象物として挙げられていますが、「これでないといけない」という書き方はされていません。(ここが、ヨーガが宗教と一線を画するところであるとも述べました)

 

ですが、スワミ・クリシュナナンダは、わたしたちが、自分の内なる無限の欲求を埋めるために瞑想をするのだから、瞑想の対象も無限を孕んだものでないとならないと考えていることもお話しました。

だから、瞑想の対象を決めることが難しいとも。

 

そして、それが決まれば、瞑想は自ずとやってくるともおっしゃっています。

 

 

でも、最初からそこまで厳格に考えないで、まずは自分の足を動かしてみて、動かした方の足と、そうでない足の違いを感じ取る。あるいは、自分の呼吸に意識を向ける、または、ハミングをして、その音に集中してみようというのが、わたくしどもが行う瞑想の練習です。それは、アーサナと一体になっているものというお話も、前回いたしました。

 

また、目の前のろうそくの炎に、あるは、口の中に、鼻腔に広がる食物の味と香りに・・という方法もあります。

 

  

ヨーガ・スートラの他の箇所には、こう書かれます。

 

Ⅰ-41 Kashinavritterabhijatasyeva manegrahitr grahanagrahyesh tatshatadanjanata sampattih

 

混じりけのない宝石や水晶が、その隣にあるものの色を映し出すように、心(チッタ、chitta、mind-field)の思いの波(ブリッティ、vritti、thought waves)が小さくなり、ピュアでクリアになると、集中している対象のすべての特性を帯びるようになる。その、(対象を)保持している心と、保持される対象と、保持をするプロセスは、すべてが一緒になる。これがサンパッティ、合体(癒合)と言われるものである。

 

サンパッティ(Sam+a+patti)とは、あるもの(こと)へ完全に溶け込んでいくプロセスのことである。心が理解したいと、保持したいと望むものと合一するということである。一度、理解するもの(grahita)であるチッタが、自身を、理解されるもの(grahya)と同一であると認めるとき、両方が一つとなるとき、そこにさらなる理解(grahana)は不可能である。その理解も、理解するものと理解されるものへ溶け込んでしまう。クリスタルに映るがごとくである。

 

 

 

集中してアーサナのレッスンを受けていると、身体がどこまでもほぐれて、呼吸がどこまでも広がる。

 

そうした、「限りのない感じ」に、溶け込んでしまうので、「あれをしなくちゃ」、「あんなこと言っちゃった」などの心の下地に起こる思いの波もどこかに行ってしまう。 

 

心と身体がほぐれていくその先の、生命の営みそのものは、時間と空間の制約を受けないからでしょうか。

自分が広大な世界になってしまったような、あるいは、広大無辺な存在そのものが、わたしになってしまったような、瞑想ともサマディとも言える瞬間がやってくることがあります。

 

そんなときは、あっという間に時間が過ぎてしまいます。

 

本人にとっても、最初は、集中できているなと感じたと思ったら、いつの間にかに時間が経っていて、終わった後に「ああ、あれが瞑想だったのかな」と思い出せる、そんな感じかも知れません。

 

そうそう。そして、こうした瞬間を少しでも体験することで、わたしたちはとてもリフレッシュします。これ、大事なところですね。

今、瞑想中の生理データが計測機器の進化でたくさん集まっています。脳波が変わり、呼吸数、心拍、血圧が変わり、血糖値やホルモンが変わります。これは体験した人なら、よくご存知ですね。

時に「生まれ変わったような』リフレッシュがやって来るという人もおいでです。

ヨーガ的には、こうした瞑想を日常にものにしていくことで、さらに進んだサマディを体験することが大切とされます。

 

それには、ここまでの、ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナヤーマ、プラティヤハラの5段階(外的部門)がとても大切です。

 

ヤマ、ニヤマがおろそかでは、心が穏やかに収まるということが難しくなります。

 

ヤマ、ニヤマを心掛けると、アーサナ、プラーナヤーマ、プラティヤハラが、非常に行いやすくなります。

 

こうしたヨーガ行法が日々の習慣になってくると、日常のいたるところに、瞑想の対象にふさわしいものを見いだせるようになってきます。

  

音と音の間の静寂に集中することで意識が静まり返る経験をしたり、台風に吹き込む南風が、雲を運び、樹々をうねらせ、わたしの心をも波打たせるのを感じとったり。

そして、それらがすべて、一つの、始まりも終わりもない、無限のエネルギーによって動かされていることを念想すると、自然と瞑想が深まります。

 

外的部門(ヤマ→プラティヤハラ)と内的部門(サンマヤ)が両輪となって、生活そのものが瞑想的になってくる。

 

この状態へ至るよう、スワミ・シバナンダは、こう勇気づけてくれます。

 

“Put your heart, mind, and soul into even your smallest acts. This is the secret of success”

Swami Sivananda

 

どんな些細なことにもあなたの気持ちと考えと、あなたの存在すべてを込めて行いなさい。それが成功への秘訣です。

スワミ・シバナンダ

 

ヨーガ・スートラを著したパタンジャリの言葉で言えば、アビヤーサ=習修を心して修めなさいということですね。

 

そうすると、より高次のサマディがやって来ると、お二人は確証してくださいます。

 

 

次回は、いよいよ、そうした、ヨーガの教える最後の段階、もうこれ以上はないというサマディについてです。

 

それは、どのような段階なのでしょうか。

どうぞ次号をお楽しみに。


 

参考文献:

Swami Krishnananda

https://www.swami-krishnananda.org/patanjali/raja_83.html

ヨーガ・スートラ 英訳 Dr. Sita k Namibiar, The Divine Life Society刊 日本語訳 友永乾史 

今季のプログラム

10月からのプログラム

​新月の朝の瞑想会 

  • 10月24日(月)6:00 -6:45

  • 11月24日(木)6:00 -6:45

  • 12月24日(土)6:00 -6:45

  • 1月22日(日)6:00 -6:45

  • 2月20日(月)6:00 -6:45

  • 3月23日(木)6:00-6:45

呼吸法などを用いて瞑想へ自分をいざなおうとする試みです

​講師:友永乾史

オンラインでの開催です。yogatomo.online よりお申込みください。

須田 育の土曜の夜のヨーガ・ニドラ

  • 10月22日(土)21:00 -22:00

  • 12月10日(土)21:00 -22:00

  • 2月25日(土)21:00 -22:00

オンラインでの開催です。yogatomo.online よりお申込みください。

​友永淳子のお話の会

  • 11月12日(土)16:30 -17:30

  • 1月未定(土)16:30 -17:30

  • 3月11日(土)16:30 -17:30

オンラインでの開催です。yogatomo.online よりお申込みください。

編集後記
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